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代表挨拶
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家は家族との時間を、長く共有する場。
お客様から「ここまでやってくれるの!」
を越えて、貢献するのが仕事です。
私たちはこれからも、
子どものことを想った、
親の愛情が詰まった、
「家族がひとつになれる家づくり」
のお手伝いを続けてまいります。
社長の生い立ち
出席ハンコが貰えない園児と、忙しく働く両親
代表の今村淳(いまむらじゅん)です。
私は1974年、今村工務店の社長の長男として生まれました。
だから、ずっと子どもの頃から、父(現会長です)と母(経理をしていました)の仕事を見て育ちました。ただ、幼稚園から小学校までの間、私は喘息で体が弱くて、よく寝込んでいたのです。特に幼稚園にはほとんど行けませんでした。(たまたま出てきた幼稚園の出席簿?、見てみると出席ハンコが1つもなく真っ白な手帳のときもありました。)
たまに幼稚園にいけた日でも、私が運動するとゼエゼエいうので、保育士さんたちは私を外で遊ばせなかったようです。ですから、私はいつも一人ぼっち。友達は、ほとんど出来ません。
それが悪循環になり、徐々に、幼稚園に行かなくなったようです。
振り返ってみると、我ながらなかなかに寂しい幼少期を過ごしたんだなと思います。
私が小学校に上がる前に、家を新築して、引っ越すことになりました。
体力が付いたのか、だんだん友達も増えて、学校生活も楽しめるようになりました。
しかし、友達が増えていくと、その友達と自分を比べてしまうものです。
私の両親は仕事をぜんぜん休んでいなくて、いつも忙しく仕事をしているという事でした。小学校高学年になる頃に気づいたのですが、私は家族サービスという体験をほとんどしたことがありません。
憶えている家族サービスと言えば、誕生日にレストランで食事をするぐらいでした。
そんな私は、家族旅行なんてどこかのお金持ちの世界の話だと思っていました。
当時の私はそれが寂しかったのか、友達をうらやましく思っていました。
後日、妻にこの話をすると、寂しい人生やねと同情されました・・・(苦笑)
頑固な経営者(父)とは別の道へ
父は頑固な仕事人間でした。
そして、触れ合う機会の少なかった私は家族からの愛情を感じることが出来なくて、親とは違う人生を歩んでいくことを決めます。
思春期という事もあり、あまり両親と会話する事も無く、高校を卒業。
私は親の仕事である建築とは全く関係のない、県外の機械科の大学を選び進学しました。
休みなく働く両親を見ていたので、何となく建築は避けていたというのが本音です。
大学を卒業して、就職先を決める際にも地元には帰らず、遠く離れた名古屋の会社に就職しました。この時も、名古屋にしたよ程度の事後報告だったと思います。
自分勝手な私は、家業とは縁を切ったつもりでいました。
実家の工務店を誰が継ぐのか?
時が流れ26歳の冬、姉(長女)から手紙が送られてきました。
内容は、父がここまで頑張った会社をどうするんだ!という事でした。
「淳、お父さんの会社継がないの?」
「お父さんが建てた家のアフターは誰がやるの!」
「淳が一番愛されて育ったんだから、継がないって人間的にどうよ!」
といった感じの強引な姉理論でした。
私は、「えぇ!俺が一番愛されて育ったって・・・ 姉ちゃんたちのほうが大切にされてたじゃん!」と思いました。
しかし、父に似たのか、頑固で強引な姉にまるめ込まれるように、実家に帰る事になったのです。
子どもの頃の経験から
気づいたこと
家づくりで気づいた『誤解』と『愛情』
姉の強引な説得で、とりあえず帰るだけ帰ってみるかぐらいの気持ちでした。
当時は結婚もまだでした。
そして、何より私は、建築のことが全く解っていませんでした。
そうです。素人なのに後を継いでしまったという、事の重大さに気づいていなかったのです。ですから、建築の勉強を始めました。
しかし、大工さんや職人さんとの会話は専門用語が多く、素人の私には翻訳が必要で、同じ日本語には感じませんでした。
そんな失敗の日々が続く中で、私は「これではイカン!」と反省しました。
そして、お客様と同じ気持ちになる事から始めようと住宅展示場に行くことにしました。
この住宅展示場に行くことで、私は誤解していたことに気づきます。
私は自分の喘息が良くなったのは、小学校2年生からはじめた剣道のおかげだと思っていました。私が喘息を克服した理由は、剣道だけではありませんでした。
父と母が私の為に建ててくれた家に引っ越したことで、
喘息の発作も出ず元気に過ごせる様になったんだと気づいたのです。
だから急に、自宅を新築して、引っ越しをしたのです。
新築に引っ越してから、学校に行けるようになり、友達も増えたのです。
住宅展示場でのイガイガ
住宅展示場でハウスメーカーさんのモデルハウスの中に入って、担当者の話を聞いていると、いつの間にか喉がイガイガしてしまいました。
それが段々ひどくなって、今度は喉が痛くなってきました。
もう、真剣に担当の方の話を聞くなんて余裕はありません。
私は逃げるように外に出て、しばらく休んでいると症状が幾分治まってきました。
次のメーカーさんの住宅に入っても、また同じように喉が痛くなります。
段々と気分も悪くなり、結局、会社に帰って休むことにしました。
次の日、昨日の事を話すと『お前、小児喘息だったから気管支が弱いんだよ。だから、接着剤や塗料でやられたんだよ』と父が教えてくれたのです。
小学校4年生以降は学校を休むことなく、皆勤賞。
1年間の皆勤賞なんて、幼児期の私から見れば、正に奇跡です。
しかし、子どもの私は全く気づきませんでした。
健康になれたのは、両親のおかげだったのです。
両親の苦労と愛情、それに気づくまで、30年近い時間が過ぎてしまっていました。
家が家族の健康を守ることもある
私が喘息に病んでいた当時、父と母が私の為に出した答えが、体の弱い私が安心して住める家を建ててくれたことだったのです。
父はとても職人気質で無口ですし、母も照れ屋なので家族の事や私の事を話しません。
ですから、私は家を引っ越した本当の理由に気づくのに、とても時間がかかってしまいました。
当時の父は自分が出来ることで、子どもの健康を守りたい。
それには何が出来るか?を考えた結果、家づくりを選んだと思います。
子どもを想う
両親の愛がつまった家
自分が親になって気づく
私も今では二人の娘の父親になりました。
そして、父親になってはじめて分かったのは、自分の子どもが幼稚園に行けず、楽しく遊ぶことが出来なかったら、子どもが思う以上に親はとても心配するということです。
そして、時には親が自分を責めてしまいます。
子どもが病弱なのを、親は自分のせいではと疑ってしまうからです。
そして、「子どもの病気を親が代わってあげたいなあ…」と思っても、
それを代わることはできません。
そうです。そんな子どもを見守る時間が長いほど、親は辛いのです。
私に出来ることは
子供を健康にしたいとプールに通わせる方もいらっしゃると思います。
実際私もプールか柔道か剣道かを選ばされました。
決定権は無かったですが…。
喘息だけではなく、アレルギーもある子供には食事療法を行う方もいらっしゃいます。
どんな親でも、子どもと代われないからといって、ただ指をくわえているのではなく、出来ることは何かないかな?と必死に考えるはずです。
では家づくりに携わっている私に出来ることは無いのか。
そう考えた時に、父親が私にしてくれたことが思い浮かびました。
私と同じような体の弱い子供の健康を家で守ること。
一度体験をした私なら出来ると思いました。
体の弱かった私が克服出来たように、今村工務店はこれからも父の作った家づくりの方法を守っていきたいと思います。
私が名古屋から帰って来て、建築を学び、沢山のオーナー様との会話の中で強く感じたのは、家づくりは単に性能の良い物をつくるか?の競争ではないということ。
家は柱や梁、断熱材から出来た無機質な物ではなく、親の子どもに対する愛情が沢山詰まって出来ていること。
最も大切なのは、目には見えないけれど、とても大切な想い(絆)を形にする仕事を、お客様と仲間とさせていただいていると言うことです。
私たちは子供の健康は親が守る家づくりを徹底しています。
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