今村工務店のコンセプト「家族が「ひとつ」になれる家づくり」の原点についてのストーリー

HITOTSU

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「家族が『ひとつ』になれる家づくり」とは?

家は家族が一緒に育まれる場所

もし、ご自身の住む家が、『住むほどに家族愛を感じあえる場所』だとしたら、どれだけ幸せな時間が過ごせるでしょう。

家とは、家族が育まれる場所。
そして、家族に辛いことがあっても、愛情で支え合える場所。

今でこそ、代表をしている私ですが、後を引き継ぐまで、ずいぶん遠回りをしました。
私は工務店の跡取りとして生まれ、そして、家族の大きな愛で支えられて生きていることに気づくまで、遠回りしたのです。

そんな私がある日、家族の愛情に気づき、感謝を伝えられるようになりました。
「家族が愛情で支え合う住まい」
「不器用で遠回りしても感謝を学べる住まい」
これが、私たちの家づくりの原点です。

「子どもが両親からの愛で育つ家」。
「子どもの成長が親を大人にしてくれる家」。
「家族が笑顔で暮らせる家」づくりの原点。

社長の生い立ち

-家業とは関係のない仕事

代表の今村淳(いまむらじゅん)です。
私は1974年、今村工務店の社長の長男として生まれました。
そして、子どもの頃から、父(現会長です)と母(経理です)の仕事を見て育ちました。

そのころ、友達と比べて感じていたことがあります。
それは、私の両親は休みを全く取らないという事でした。
そして、小学校高学年になる頃に理解したことですが、私は家族サービスという体験をほとんどしたことがありません。

憶えている家族サービスと言えば、誕生日にレストランで食事をするぐらいでした。
そんな私は、家族旅行なんてどこかのお金持ちの世界の話だと思っていました。
後日、妻にこの話をすると、寂しい人生やねと同情されました・・・(苦笑)

父は頑固な仕事人間でした。
そして、触れ合う機会の少なかった私は家族からの愛情を感じることが出来なくて、親とは違う人生を歩むようになります。

高校を卒業すると、私は親の仕事である建築とは全く関係のない、県外の機械科の大学を選び進学しました。
さらに卒業後、遠く離れた名古屋の会社に就職。
自分勝手な私は、家業とは縁を切ったつもりでいました。

  • 幼稚園の運動会。 姉とのツーショット。

  • 建築とは関係ない大学時代。

-訪れた転機

時が流れ26歳の冬、姉(長女)から手紙が送られてきました。

内容は、父がここまで頑張った会社をどうするんだ!という事でした。
「淳、お父さんの会社継がないの?」
「お父さんが建てた家のアフターは誰がやるの!」
「淳が一番愛されて育ったんだから、継がないって人間的にどうよ!」
といった感じの強引な姉理論でした。

私は、「えぇ!俺が一番愛されて育ったって・・・ 姉ちゃんたちのほうが大切にされてたじゃん!」と思いました。

しかし、私は強引な姉の意向にまるめ込まれるように、実家に帰る事になったのです。
そして後日、両親から大きな愛をもらっていることに気づいたのです。
それに気づくまで、30年近い時間が過ぎてしまっていました。

-本気で生きるようになるきっかけ

姉の強引な説得で、とりあえず帰るだけ帰ってみるかぐらいの気持ちでした。

当時は結婚もまだでした。
そして、何より私は、建築のことが全く解っていませんでした。
そうです。素人なのに後を継いでしまったという、事の重大さに気づいていなかったのです。

ですから、建築の勉強を始めました。
しかし、大工さんや職人さんとの会話は専門用語が多く、素人の私には翻訳が必要で、同じ日本語には感じませんでした。

そんな失敗の日々が続く中で、私は「これではイカン!」と深く、深く、反省しました。
そして、お客様と同じ気持ちになることからはじめようと考えたのです。

新しく家づくりをお考えのお客様と同じ視線に立とう。
「家づくり」とは何ぞや!? から始めよう!と思ったのです。
そこで、まずは近くの住宅展示場に行って学ぶことにしました。

子どもの頃の経験から気づいたこと

-素人だからこそ気づけた、住宅の問題

家づくりの勉強をしようと、ハウスメーカーさんの住宅展示場にいきました。
ところが、モデルハウスの中に入って担当者の話を聞いていると、いつの間にか喉がイガイガしてしまいました。
それが段々ひどくなって、今度は喉が痛くなってきました。
もう、真剣に担当の方の話を聞くなんて余裕はありません。
私は逃げるように外に出て、しばらく休んでいると症状が幾分治まってきました。

そこで再チャレンジ。
勉強する為に住宅展示場に来たのです。
次のメーカーさんの住宅に入りました。

すると、また同じように喉が痛くなります。
段々と気分も悪くなり、結局、会社に帰って休むことにしました。

次の日、昨日の事を話すと『お前、小児喘息だったから気管支が弱いんだよ。だから、合板(コンパネ)の接着剤でやられたんだよ』と父が教えてくれたのです。
私は幼少時の喘息の影響で、知覚過敏なのです。

-病弱で、一人ぼっちの時間

子どもの頃、私は喘息で体が弱かったので、よく寝込んでいたことを覚えています。
そのせいか幼稚園にはほとんど行けませんでした。
たまに幼稚園にいけた日でも、私が運動するとゼエゼエいうので、保育士さんたちは私を外で遊ばせなかったようです。

ですから、私はいつも一人ぼっち。
友達は、ほとんど出来ません。

それが悪循環になり、徐々に、幼稚園に行かなくなったようです。
振り返ってみると、我ながらなかなか寂しい幼少期を過ごしたんだなと思います。

-子どもは無邪気なもの

私が小学校に上がる前に、何故か急に引っ越すことになりました。
当時は、「新しい綺麗な家に引っ越しだ!ヤッター!!」、としか考えてなかったはずです。
ところが、その家に引っ越してから、段々と喘息が出なくなりました。

その結果、体力が付きました。
なんと、小学校4年生以降は休むことなく皆勤賞を取りました。
1年間の皆勤賞なんて、幼児期の私から見れば、正に奇跡です。

しかし、子どもの私は全く気づきませんでした。
健康になれたのは、両親のおかげだったのです。

子どもを想う両親の愛がつまった家

-両親の愛に気づく

30年後、私は気づいたのです。
住宅展示場で気分を悪くした出来事が、30年前に親からしてもらったことと繋がったのです。

私は誤解していました。
私は自分の喘息が良くなったのは、小学校2年生からはじめた剣道のおかげだと思っていました。
それが、私が父の後を継ぎ自ら住宅展示場をまわって気づけたのです。
私が喘息を克服した理由は、剣道だけではありませんでした。

あの引っ越しの時、父と母が私の為に建ててくれた家に引っ越したことで、喘息の発作も出ず元気に過ごせる様になったんだと気づいたのです。

もっと、もっと、もっと早く。
父と母の愛に気づいていたら、父親に対する思いも変化し、この工務店を継ぐ日が早かったかもしれません。

さらに、この時に姉から、
「淳が一番愛されて育ったんだから、継がないって人間的にどうよ!」
という言葉の意味が深く理解できたのです。

そうです。
私はどうしようもない鈍感でした。

-私たちが親になって気づいたこと!

鈍感で愛情に疎い私も、おかげさまで今では二人の娘の父親になりました。
そして、父親になってはじめて分かったのは、自分の子どもが幼稚園に行けず、楽しく遊ぶことが出来なかったら、子どもが思う以上に親はとても心配するということです。

そして、時には親が自分を責めてしまいます。
子どもが病弱なのを、親は自分のせいではと疑ってしまうからです。

そして、「子どもの病気を親が代わってあげたいなあ…」と思っても、それを代わることはできません。
そうです。そんな子どもを見守る時間が長いほど、親は辛いのです。

そんな親は、子どもと代われないからといって、ただ指をくわえているのではなく、出来ることは何かないかな?と必死に考えるはずです。

私が喘息に病んでいた当時、父と母が私の為に出した答えが、体の弱い私が安心して住める家を建ててくれたことだったのです。
私にとって最高の家族サービス。それに気づかないのが私・・・。

父はとても職人気質で無口ですし、母も照れ屋なので家族の事や私の事を話しません。
ですから、私は家を引っ越した本当の理由に気づくのに、とても時間がかかってしまったのです。
親の愛に気づくのに遠回りしたのです。

だから、私たち今村工務店は、
「子どもが両親からの愛で育つ家」
「子どもの成長が親を大人にしてくれる家」
「家族が笑顔で暮らせる家」

を丁寧に造りつづけていきたいのです。

住むほどに、家族同士が愛情を感じる家を作りたい

-ありがとう

大人になってからの2つの体験。
「お客様の視点に立って展示場に行った」 + 「父親になった」。
この体験が無かったら、きっと両親に対して大きな愛を感じることが薄かったかもしれません。

口下手な父と照れ屋の母の愛情に気づけなくて、感謝を伝えることが遅くなったかもしれません。
もしかすると鈍感な私は、不器用な両親から生涯愛情を感じることが無かったかもしれません。

しかし、今なら大きな声で、
「私の身体を気遣ってくれてありがとう!父さん、母さんの子どもでよかったよ!」
と心から伝えられます。

-家族が笑顔になる家

きっと、世の中には私と同じような子ども。
同じように育った子ども。
そして、愛情表現が不器用な私の両親と同じような方が多いと思います。

私たち今村工務店には、信念が有ります。
親子は、繋がりを感じながらお互いが成長するべきだと考えています。
親も子どもも、お互いの愛情を上手く表現できずに誤解を生じさせてしまうことがあります。
しかし、本当は気付かないだけで、愛情をたっぷり交換しながら生活しているのです。

私たち今村工務店は、その家に住む一人ひとりが、いつでも愛情を感じられる家づくりをします。
住むほどに、家族同士が愛情を感じて欲しいのです。

私のように、家族への愛情を受け取るまでに、遠回りしないでください。

-転職に出会って!

私たち今村工務店は、お客様との家づくりで、貴重な体験をさせていただいています。
そして、家づくりに対する想いが日々深化しています。

最初は、家づくりは単に性能の良い物をつくるか?の競争ではないということ。
次に、家は柱や梁、断熱材から出来た物ではなく、親の子どもに対する愛情が沢山詰まって出来ていること。
最も大切なのは、目には見えないけれど、とても大切な想い(絆)を形にする仕事を、お客様と仲間とさせていただいていると言うことです。

私たちが皆様と一緒につくりたい家は、
「子どもが両親からの愛で育つ家」
「子どもの成長が親を大人にしてくれる家」
「家族が笑顔で暮らせる家」

それが私たち今村工務店の家づくりにこめた想いです。
家族がひとつになれる笑顔あふれるあたたかい家をつくります。

伝えたい感謝の言葉

-父と母へ

1953年にこの地で家づくりを始め、私にこの会社を引き継いでくれた、お父さん。お母さん。

私は、愛情をたくさん注いで育ててもらったことに気づくまで、ずいぶん時間がかかってしまいました。
私が家業と異なる専門を目指し進学し、名古屋で全く畑違いの仕事をしていた頃。
きっと、私の将来を考え黙って見守っていてくれていました。

私は、父や母の想いに気づけず、自由に生活させていただきました。
本当に、ありがとうございました。
私が遠い場所で生活していた時間、父と母の気持ちを考えると胸が一杯になります。

しかし、その離れて暮らして全くの素人として家業を継げたことは、お客様の視点で家づくりを考えるという、今村工務店の強みになっています。

これから一所懸命、父と母から受け継いだ意志を、地域の皆様に貢献することで恩返ししていきたいと思います。

-妻へ

私が今村工務店を継ぎ、私以上に畑違いの仕事を文句の一つも言わずに手伝ってくれて、ありがとう。
もしかすると、もしかすると、私は自分の父以上に 妻や二人の娘に家族サービスをしていないかも知れません。

それでも、いつも笑顔で私たち家族を支えてくれるあなたと結婚したことは、私の最高の財産です。
会社のためとはいえ、妻や娘たちに、十分な時間をかけられかった私を、どうか許してください。
これからも、よろしくお願いします。

-家族が基盤

人に何かを伝えるのが下手な無口な父。
そして、私の成長が足りなかったこともあり、今村工務店の仕事にどの様な意味があるのか?
どうして、そこまで丁寧に家づくりをするのか?
それらを理解するまでに、とても時間がかかりました。

だけど今。
今村工務店の家の造り方・考え方を体験していく間に、お客様から「ここまでやってくれるの!」
と感動される意味が分かる様になりました。

家は家族との時間を、長く共有する場。
お客様から「ここまでやってくれるの!」を越えて、貢献するのは仕事なのです。

私たちはこれからも、子どものことを想った、親の愛情が詰まった家をこれからも造って広めて行きます。
当初は何とも中途半端な気持ちで帰って来ましたが、父が引退した今も、子どもが両親からの愛で育つ家を造って行きます。

姉から気づかされた家族愛。
両親から授かった家族愛。
私が受け取った家族愛。

私たち今村工務店は、これからも家族愛に溢れた、家族がひとつになれる家づくりのお手伝いを続けてまいります。

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